加藤友三郎-エピソード
幼少期ー「ひいかちの友公」
「刀はもう持たれぬ時代でしたが友さんだけは赤鞘の長い刀を一本打つ込んで、二言目にはズラリと抜き放ち(略)『打つた斬るぞ』とおどし、お山の大將をきめこんでゐました」
(出典:加藤元帥傳記編纂委員、「元帥加藤友三郎傳」、非売品、昭和3年、以下「元帥傳」)
「きかぬ氣の子で喧嘩早くて、何時も私共へ弟の喧嘩の尻を持ちこまれ、末はどうなるかと案じて居りました」
(出典:「元帥傳」)
「喧嘩好きであつた位だから、喋る事に於いても、人に負けて居なかつた友三郎が(略)口を利かなくなつたので、子供仲間では、友三郎のことを『黙まり蟲』と呼んで居た」
(出典:澤田撫松、「少年立志成功談 大臣大將の少年時代」、南海書院、昭和2年、以下「少年立志成功談」)
青年期ー「横シャッポ」
「皆がストライキをやるという。加藤さんだけ『俺は入らない。(略)誰が何をやろうと俺だけは絶対に加担しない。』といった。(略)その時代から加藤さんはそういう人だった」
山梨勝之進(兵25期、大将)の懐古談
(出典:加藤元帥を偲ぶ会実行委員会、「加藤友三郎元帥」、非売品、昭和43年、以下「偲ぶ会」)
「友三郎は軍帽を眞直に冠つたことがなかつた。いつでも横にまげて冠つて居たので學生仲間では友三郎のことを『横シャッポ』と言つて居た」
(出典:「少年立志成功談」)
「いや驚きました艦長!偉い怪物が澤山に出たので、艦の進行でも妨害げられては大變だから、御報告の暇も無く發砲しました」
パナマ港近海を「筑波艦」にて航行中、無断で発砲させ艦長野村貞大佐(期前)に咎められた際の、友三郎の回答
パナマ港近海を「筑波艦」にて航行中、無断で発砲させ艦長野村貞大佐(期前)に咎められた際の、友三郎の回答
(出典:小笠原長生、「鉄桜随筆」、実業之日本社、昭和元年)
日露戦争ー「艦長、取舵一杯」
「機関兵は(略)是非とも閉塞隊に加えて貰いたいと(略)懇願するのであった。(略)思い止まれと慰諭してやると、彼は漸く納得して辭し去つた。(略)機関兵が一禮して室外に出たかと思ふと(略)、(友三郎は)忽ち声を放って泣き出した」
第2艦隊旗艦「出雲」艦長・伊地知季珍大佐(兵7期、中将)の懐古談(出典:元帥傳」)
「加藤参謀長は、あまり細かいことはいわなかった。そして、思い切ってやる風だった」
連合艦隊司令部参謀・飯田久恒少佐(兵19期、中将)の懐古談 (出典: 「日露戦争の連合艦隊司令部」 水交1967年5月号)
「参謀長も『自分モ今日ハ此處ヲ離レナイ、併シ皆ガ一緒ニ居テハ一ペンニヤラレルカラ、成ルベク離レテ位置シタ方ガ宜イ』と注意され、結局三笠の最上艦橋には東郷司令長官と加藤参謀長とが居られ、それ以外の幕僚は戦闘中は別れて司令塔及中甲板の防禦内に這入つて居った」「(略)参謀長の甲高い声が突如として響いた、『艦長取舵一杯!』(略)徐ろに長官に向かひ『長官!取舵ニ致シマシタ』と報告され」
連合艦隊旗艦「三笠」砲術長・安保清種少佐(兵18期、大将)が昭和2年9月に行った講演「海戦の勝敗と主将」にて言及したもの(出典:「元帥傳」)
「加藤参謀長は、一々長官の指示を仰ぐ事なく、布目三笠航海長に令して艦隊を誘導したとの噂あり、その真相を確かめんとある時小林躋造大将が(略)加藤元帥に質問せられた処『そんな事はどうでもよい、戦に勝てばよい』と答えられた」
坂野常善(兵33期、中将)の懐古談(出典:「偲ぶ会」)
「私の宅をお訪ね下さいまして(略)元帥は『こんどの戦争は重大で、日本の国運に関することであるから、できるだけ努力はいたしますが、あるいはお目にかかる機会はないかも知れない』と述べられた(略)日本海海戦後凱旋され、私の宅を訪ねられました。(略)戦争については余り話されませんでした」
旧広島藩主・浅野長武公の懐古談(出典:「偲ぶ会」)
壮年期ー次官・呉鎮守府長官・1F司令長官
「該遺書ニあまり同情ヲ表スル時ハ将来如此場合ニハ先ツ以テ遺書ヲ認メ、然ル后ニ本務ニ取懸ルト云フガ如キ心得違ノ者ヲ生スルノ恐レハナキヤ」
友三郎から海軍省副官井出謙治大佐(兵16期、大将)宛書簡
(出典:「明治四十三年公文備考 艦船八 巻二十五」/
山本政雄「第六潜水艇沈没事故と海軍の対応
-日露戦争後の海軍拡張を巡る状況に関する一考察-」防衛研究所紀要第7巻2・3合併号、2005年3月から転載)
海軍大臣時代-「油断のならぬ人」
「元帥が人を叱つたり小言を言つたりしたことは絶えて聞かぬ」
大角岑生(兵24期、大将)の懐古談(出典:「元帥傳」)
「不愛想な人に見える加藤元帥であったが近所に住んでおった副官連中の子供に旅行のお土産を贈られた事が屢々あった」「山下源太郎大将はたしか二級下であったが、同大将が軍令部長であった当時大臣室にこられた時には、椅子に腰掛けられる事なく直立して話された」
坂野常善(兵33期、中将)の懐古談(出典:「偲ぶ会」)
「私は古い時刻表で急行が沼津にとまるつもりでいた。(略)ところが、車内で聞くと、それは沼津にはとまらぬという。これは大変なことをしたと思って(略)大船で一時間半ばかり駅長室で待って頂いたことがある。この時大臣はうんともいはれない。そういう風で済んだことはかれこれいはれなかった」
長谷川清(兵31期、大将) の懐古談(出典:「偲ぶ会」)
「寝台列車のついていないのに気付かず(略)広い車内で大臣と二人きり向かい合って一夜を腰かけたまま過ごした時の気まづさ。それでも大臣はすましたもので、厭味一つおくびにも出されなかった」
「大臣は自分の物を私に持たせたことは一度もなかった」
「甲府駅に着いたところ、私服の警官が車内を見廻し、まず風采の上がらない人をとでも思ったのか『海軍大臣はどこに乗っておられますか』と訊ねた。相手が生憎大臣その人だった」
「『早く帰宅して静養するがよい。その顔では電車にも乗れまい。人力車を呼べ』」(略)帰宅して間もなく喜代子夫人が見舞に来られた」
山縣武夫(兵32期)の懐古談(出典:「偲ぶ会」)
ワシントン会議 -「国防ハ軍人ノ専有物ニ非ス」
「明日みんな休暇をやるから、ピッツバーグに行って、そこの煙突の数を調べて来い」
源田実(兵52期、大佐、空将、参議院議員)が随員・桑原虎雄大尉(兵37期、中将)から直接聞いた話として
(出典:源田実、 「真珠湾作戦回顧録」、読売新聞社、昭和47年)
「元帥は、大筋はよく判っておられる」
強硬派随員の「東郷元帥は6割では承知されまい」との言葉に対して
(出典:新井達夫、 「加藤友三郎」、時事通信社、昭和34年)
「七割なら安全で六割では危険だという根拠をもっとよく研究しようではないか」
(出典:新井、前掲書)
「国防ハ軍人ノ専有物ニ非ス戦争モ亦軍人ノミニテ為シ得ベキモノニ在ラス(略)平タク言ヘバ金ガ無ケレハ戦争ガ出来ヌト云フコトナリ」「仮リニ軍備ハ米国ニ拮抗スルノ力アリト仮定スルモ日露戦役ノ時ノ如キ少額ノ金デハ戦争ハ出来ス然ラバ其ノ金ハ何処ヨリ之ヲ得ヘシヤト云フニ米国以外ニ日本ノ外債ニ応シ得ル国ハ見当タラス(略)国防ハ国力ニ相応スル武力ヲ備ウルト同時ニ国力ヲ涵養シ一方外交手段ニヨリ戦争ヲ避クルコトガ目下ノ時勢ニ於テ国防ノ本義ナリト信ズ」
大正10年12月27日 ショーラム・ホテルにて 加藤寛治中将列席 堀悌吉中佐手記
「大金持がその無限の資力を以て拡張して行こうと言うことに(略)競争致そうという意思は持っていない」
大正8年2月、衆議院予算委員会での発言
(出典:「第四十一回帝国議会衆議院予算委員会第四分科会議録」/
麻田貞雄「ワシントン海軍軍縮の政治過程-ふたりの加藤を巡って-」、同志社法学第49巻第2号から転載)
「何時カ議会デ「八八艦隊ハ死物ナリ」之ヲ活物ニスルニハ燃料其他尚多クノ施設ヲ要スト云ッテヤロウト思フガ(略)其ノ勇気ガ今ハナイ」
大正9年、地方の水交社の晩餐会における友三郎の発言
(出典:「大正九年官房秘書官雑綴」/海軍歴史保存会、「日本海軍史第二巻通史第三編」、平成7年から転載)
米国メディアがみた友三郎ー「ポーカーフェイス宰相」
ワシントン会議の特派員たちは加藤男爵に好意をもつようになっていった。彼らは互いに彼の「ポーカーフェイス」についてむしろ羨望の眼差しで互いに冗談を言い合った。(略)平静さを保つそのマスクを動揺させるべく計算された質問を故意に彼にぶつけて競い合った。男爵はそれがゲームということを分かっていたと思われる。それを楽しんでいるように見えるときもあった。一度も腹を立てず、一度も軽率な回答をしなかった。(略)そして特派員たちは一度たりとも彼の沈着冷静さを突き破ることはできなかった」
「ワシントン会議での、貧相で不格好なフロックコート姿を思い浮かべる人もいるだろう。そして、今度は絹の民族衣装を纏ってミカドの内閣を主催する姿を想像する人もいるだろう。しかし、そのいずれの姿も、対馬沖で連合艦隊司令部の副官が見たポーカー・フェイスを思い描かねば不正確なものになる」
1922年6月18日付The New York Times
米国海軍から見た友三郎ー「最も偉大で紳士的な人」
"I felt that so long as he had the
direction of affairs in his hands no misunderstanding could arise between your
country and mine which could not be settled through amicable arrangements”
「日本の国政が彼の掌中にあるかぎり、
アメリカ側随員・WiliamVeazePratt少将(後、大将)から野村吉三郎少将(兵26期、大将)への1923年8月25日付書簡
加藤友三郎関連略年表
文久元年 (1861年) |
4月、広島藩士・加藤七郎兵衛の子として出生 | 0歳 |
明治6年 (1873年) |
10月、海軍兵学寮(1876年、海軍兵学校と改名)入校 | 12歳 |
明治13年 (1880年) |
4月、北米遠洋航海出発、12月1日、海軍兵学校卒業、17日少尉補 | 19歳 |
明治15年 (1882年) |
12月、ニュージーランド遠洋航海出発 | 21歳 |
明治20年 (1887年) |
9月、北米遠洋航海出発 | 26歳 |
明治21年 (1888年) |
11月、海軍大学校甲号学生 | 27歳 |
明治23年 (1890年) |
5月、巡洋艦「高千穂」砲術長 | 29歳 |
明治24年 (1891年) |
11月、巡洋艦「吉野」造兵監督官として英国出張 | 31歳 |
明治26年 (1893年) |
6月、「吉野」砲術長、同回航委員、10月「吉野」にて英国を出発 | 32歳 |
明治27年 (1894年) |
3月、英国より帰国 8月1日、日清戦争 9月17日、黄海海戦(「吉野」砲術長) |
33歳 |
明治28年 (1895年) |
4月17日、下関条約調印 | 34歳 |
明治31年 (1898年) |
10月、巡洋艦「筑紫」艦長、清国出張 11月、山本権兵衛、海相就任(第2次山縣有朋内閣) |
37歳 |
明治32年 (1899年) |
9月、軍務局軍事課長 | 38歳 |
明治33年 (1900年) |
軍部大臣現役武官制導入(第2次山縣有朋内閣) 軍務局第一課長兼第二課長 |
39歳 |
明治35年 (1902年) |
1月30日、第1次日英同盟成立 6月、常備艦隊参謀長 |
41歳 |
明治36年 (1903年) |
12月、第二艦隊参謀長 | 42歳 |
明治37年 (1904年) |
2月8日、日露戦争 9月、少将 |
43歳 |
明治38年 (1905年) |
1月、第一艦隊参謀長兼連合艦隊参謀長 5月27日、日本海海戦(連合艦隊参謀長) 9月5日、ポーツマス条約 12月、軍務局長 |
44歳 |
明治39年 (1906年) |
1月、次官 | 45歳 |
明治40年 (1907年) |
4月、帝国国防方針制定 |
46歳 |
明治41年 (1908年) |
8月、中将 | 47歳 |
明治42年 (1909年) |
12月、呉鎮守府司令長官 | 48歳 |
明治44年 (1911年) |
7月13日、第3次日英同盟。米国を対象外に | 50歳 |
大正2年 (1913年) |
12月、第一艦隊司令長官 | 52歳 |
大正3年 (1914年) |
7月28日、第一次世界大戦 8月28日、佐世保より第一艦隊出動 |
53歳 |
大正4年 (1915年) |
1月18日、対華21カ条要求 8月10日、海軍大臣、28日、大将 |
54歳 |
大正5年 (1916年) |
8月、米、Naval Act of 1916成立 | 55歳 |
大正6年 (1917年) |
4月、米、対独宣戦布告 | 56歳 |
大正7年 (1918年) |
8月、寺内正毅内閣、シベリア出兵を宣言 9月、原敬内閣発足 11月、ドイツ降伏 |
57歳 |
大正8年 (1919年) |
1月18日、パリ講和会議 7月、八八艦隊予算(6.8億円)可決(一般歳出13.6億円) 11月、共和党ウォーレン・ハーディングが米大統領に当選 25日、戦艦「長門」竣工。世界初の16インチ砲搭載 12月、英ロイド・ジョージ首相、議会で軍縮演説 |
58歳 |
大正10年 (1921年) |
5月、米上院国際軍縮会議開催勧告決議案を採択 6月、大英帝国会議で日英同盟廃棄討議 8月、日本政府、ワシントン会議参加を正式回答 10月15日、ワシントン会議全権団、鹿島丸にて横浜から出港 24日、戦艦「陸奥」竣工 11月4日、原首相、東京駅で暗殺 12日、ワシントン会議開幕。米ヒューズ国務長官爆弾提案 13日、高橋是清内閣発足 15日、友三郎、第2回総会議にて米提案につき「主義において賛成」 16日、加藤寛治海軍首席委員、海軍軍備専門委員会で「脱退」発言 12月13日、四カ国条約講印(日英同盟廃棄) 15日、米・英・日主力艦比率「五・五・三」発表 27日、堀梯吉中佐、加藤全権伝言を筆記、先行帰国 |
60歳 |
大正11年(1922年) |
2月6日、海軍軍縮条約調印、九カ国条約調印(中国の領土保全) 12日、加藤内閣発足 24日、シベリア撤兵声明 8月、ワシントン条約批准 7月、海軍軍縮計画発表 |
61歳 |
大正12年(1923年) | 8月24日、死去 | 62歳 |