加藤友三郎(かとうともさぶろう)
1861年4月1日(文久元年2月22日)- 1923年(大正12年)8月24日)
第21代内閣総理大臣、元帥海軍大将、正二位大勲位功二級、 子爵。
広島藩士の子。日本海海戦では連合艦隊参謀長を務めた他、 ワシントン軍縮会議では全権委任として英米日の主力艦保有比率5
銅像完成についての御礼
令和2年12月6日に、第八代呉鎮守府司令長官 加藤友三郎銅像が完成し無事除幕式を行うことができました。これも全て応援またはご厚志を賜りました皆様のお陰でございます。
式典の写真も整理中でございますので、御芳名掲載も併せて年内の掲載を予定して現在作業中でございます。お時間を戴き、誠に申し訳ございませんがもう少々お待ち下さい。
加藤友三郎元帥研究会 事務局
最新情報
現在でも使われる旧海軍鎮守府
ご存知の方も多いかと思われますが、呉地方総監部は、旧軍の鎮守府庁舎をそのまま利用している海上自衛隊唯一の総監部です。
横須賀鎮守府庁舎も今なお利用されていますが、その利用者は横須賀地方総監部ではなく在日米海軍司令部です。
庁舎の最上階の白塗りの壁に、"COMMANDER U.S. NAVAL FORCES JAPAN COMMANDER NAVY REGION JAPAN" という金色の大きな文字が貼り付けられており、否が応でも昭和20年8月15日が終戦ではなく敗戦であった事実を私達日本人に突き付けてきます。
加藤は、ワシントンにおいて「日本ト戦争ノ起ルProbabilityノアルハ米国ノミナリ(略)日露戦役ノ時ノ如キ少額ノ金デハ戦争ハ出来ズ然ラバ其ノ金ハ何処ヨリ之ヲ得ヘシヤト云フニ米国以外ニ日本ノ外債ニ応シ得ル国ハ見当ラズ(略)結論トシテ日米戦争ハ不可能」と述べました。
要すれば「米国と戦争するのにその費用を米国に借りるつもりか」と言いたかったのでしょう。
当会は、呉鎮守府司令長官官舎に加藤の銅像を建立するべく奔走しておりますが、いまだ道半ばにおります。一人でも多くの方のご支援・ご協力を賜りますようお願い申し上げます。ご寄付の詳細につきましては、(株)大之木ダイモ総務部内当会事務局(tomosaburo.kato@gmail.com)にお問合せ下さい。
写真は(https://www.cnic.navy.mil/regions/cnrj.html)より転載。
銅像建立についてのクラウドファンディングのお知らせ
9月20日までの間にて、銅像建立についてクラウドファウンディングを実施させて戴きます。
つきましては、多くの方に宣伝戴くためにも皆様のご協力を賜りたく、宜しくお願い申しあげます。
銅像設置の経過について
呉市との銅像設置の協議も順調に進んでおり、市立入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎)向かって右側の車寄せロータリーに加藤の銅像を設置する方向です。また、銅像設置後は銅像を市に寄贈することとなっております。
とは言え、肝心の資金集めは道半ばです。お一人でも多くの方のご支援・ご協力を賜りますよう衷心よりお願い申し上げます(画像は大和ミュージアムHP「入船山記念館ポスター」)。
加藤にまつわる首相以外の「広島県初」
加藤には「広島県初の総理大臣」という枕詞がついて回りますが、
主な役職・階級とその就任・昇進日を以下に記します。
大藩ながら明治維新に乗り遅れた広島藩関係者にとって加藤は期待
連合艦隊参謀長:1905年(明治38年)1月12日
海軍次官:1906年(明治39年)1月8日
第一艦隊司令長官:1913年(大正2年)12月1日
大将進級:1915年(大正4年)8月28日
海軍大臣:1916年(大正5年)10月9日
元帥:1923年(大正12年)8月24日(死後追贈)
なお、広島県出身者初の呉鎮長官は、加藤ではなく、山内万寿治(
銅像建立の現状について
事務局からご報告致します。
呉市に銅像寄付についての申請書を提出しておりましたが、無事許可がおり、6月1日付けの寄付受納書を戴きました。
併せて、6月16日時点のでの寄付金総額ですが、8,578,000円となっております。皆さまのご協力につき、厚く御礼申し上げます。
加藤家墓所に残る金属供出の痕跡
昭和10年に広島市比治山公園に設置された「加藤友三郎元帥銅像」(上田直次作)は、金属類回収令により昭和18年に撤去されましたが、同じ頃、青山霊園の加藤家墓所からも鉄製の門扉と柵を供出したと言われています。
写真の通り、石造りの門柱に門扉を固定していた痕跡がはっきりと残っています。
校歌に歌われていた加藤友三郎
広島市に現存する、同市立袋町小学校という小学校の校歌2番に、加藤が歌われていたことをご存知でしょうか。歌詞にナショナリズムを煽動する要素は一切見当たらないにも関わらず、加藤が海軍軍人であったためか、闇に葬り去られました。
「秀れいの気の凝るところ 見よや精励 頼山陽 また見よ質実 加藤公 吾先人に遅れめや」
作詞者は、大正12年から昭和3年にかけて同校の校長を務めていた人物です。歌詞の趣旨は、地方の公立校の校歌によくある郷土の偉人に続けというものですが、最大の被害者は加藤もろとも闇に葬り去られた頼山陽かも知れません。
加藤死去時、大正天皇から賜った弔文発見
都内の加藤邸にて、加藤死去当日に大正天皇から賜った弔文が発見されました。現当主によると、1、2年前にどこからか出てきた卒業証書等の筒を何気なく開封したところ、菊のご紋章の入った弔文であったとのことです。筒はどうみても大正時代のものには見えず、恐らく平成の初め頃に祖父母のいずれかが間に合わせの筒に取り急ぎ保管したのではないかと述べています。
弔文の文面は以下の通りです(事務局により句読点を追加し、また読みやすくするため活用語尾・助詞は一部改めました)。
「海軍ノ偉器、累(しきり)ニ戰功ヲ立テ、内閣ノ良才 克ク職任ヲ修 ム。曩(さき)ニ使命ヲ奉ジテハ時勢ヲ審ニシテ而シテ績(せき)ヲ平和ニ奏シ、遂ニ政機ヲ執リテハ皇猷ヲ宣ベテ以テ勞ヲ燮理(しょうり)ニ效(いた)ス。出デテ將、入リテ相、勳名 益々重カリシニ、俄ニ溘逝ヲ聞ク。軫悼(しんとう) 曷(なん)ゾ勝ヘム。茲(ここ)ニ侍臣ヲ遣シ、賻ヲ齎シテ臨ミ弔セシム」
なお、死去当日は勅使である侍従・清水谷實英伯爵に加え、皇后宮御使として皇后宮事務官・西邑清氏、東宮御使として、東宮侍従・牧野貞亮子爵が遣わされました。
(公)三笠保存会会報『みかさ』第33号
銅像建立の現状について(ご報告)
事務局からご報告致します。
コロナウイルス感染症の拡大により、入船山記念館は閉館しておりますが銅像建立に向けての下見を4月3日に行いました。
併せて、4月24日時点のでの寄付金総額ですが、7,121,000円となっております。皆さまのご協力につき、厚く御礼申し上げます。
銅像建立に関するご寄付へのお礼及びご報告
2019年11月4日に、呉市のクレイトンベイホテルにて「平成30年度総会」及び「銅像建立決起会及び懇親会」が開催されました。
建立予定地でもある呉市にて正式に発表を行い、併せて呉市との折衝も開始しましたことをご報告致します。
なお、これまでの皆様のご厚志もあり、2019年12月末の段階で
3,276,000円のご寄付を戴いております。
改めまして、皆様に厚く御礼申し上げます。
【寄付金募集要項】
1.募金目標額:15百万円(予定)
2.募金の種類
(1)個人 :1口5千円
※「〇〇学校〇〇期有志」等複数名共同で1口募金も結構です。振込名義に氏名(〇〇学校〇〇期有志)などご記載下さい。
(2)法人 :1口5万円
※個人5万円以上、法人10万円以上の寄付者はご芳名・法人名を刻印させて頂きます。お手数ですが、ご寄付頂いた際に当研究会事務局までご芳名をご連絡頂けますでしょうか。
3.募金期間:2020年晩秋頃迄
4.お振込み先
ゆうちょ銀行 一三九(いちさんきゅう)当座 0110691 加藤友三郎銅像建立委員会
【銅像の設置場所及び仕様案】
1.設置場所:呉市立入船山記念館(旧・呉鎮守府司令長官官舎/日本遺産)
2.銅像の再現する姿:連合艦隊参謀長当時の姿
令和元年11月30日(土)講演会のお知らせ
※本件は当会主催ではございません。お申し込みは主催団体までお願い申し上げます。
【演題】
「日本外交における加藤友三郎の功績」
【講師】
白石仁章先生(外務省外交史料館課長補佐)
【講師略歴】
1963年(昭和38年)、東京都生まれ。上智大学大学院史学専攻博士課程修了。在学中の1989(平成元)年より外務省外交史料館に勤務し、現在に至る。専門は日本外交史とインテリジェンス・システム論。特に杉原千畝は30年近く追い続けてきたテーマ。 主な著書は『杉原千畝 情報に賭けた外交官』『戦争と諜報外交 杉原千畝たちの時代』『プチャーチン―日本人が一番好きなロシア人』『六千人の命を救え!外交官・杉原千畝』など。
【日時】
11月30日(土)18:30-20:30
【場所】
文京区民センター3階3-C会議室(文京シビックセンターではありません)
三田線・大江戸線「春日駅」A2出口から徒歩10秒 丸の内線・南北線「後楽園駅」5番出口から徒歩3分
【講演会費】
事前申込1500円、当日申込2000円、事前申込の学生500円
【懇親会費】
事前申込3500円、当日申込4000円
【お申し込み方法】
11月29日21時迄にメール又はfaxにて(当日受付も可)(懇親会は11月28日21時迄)FAX 0866-92-3551 E-mail:morale_meeting@yahoo.co.jp (千田昌寛氏宛)
世界の艦船 令和元年6月号
3月末に青山霊園の加藤の墓前で開催された、案内板除幕式の様子を記事にして頂きました。
平成31年4月1日付朝日新聞中国版朝刊
読売新聞に続き、こちらは朝日新聞記事のURLです。https://www.asahi.com/articles/ASM423H76M42PITB007.html
平成31年4月1日付読売新聞首都圏版朝刊
中国新聞に続き、こちらは読売新聞記事のURLです。https://www.yomiuri.co.jp/local/tokyo23/news/20190331-OYTNT50146/
平成31年4月1日付中国新聞朝刊
昨日3月31日(日)、港区の青山霊園加藤の墓前にて、その事績を記した案内板の除幕式が行われ、朝日新聞、読売新聞、中国新聞の各紙にご取材頂きました。こちらは中国新聞の記事です。
加藤友三郎元帥との出会い(4) 杉之尾宜生氏
「加藤友三郎元帥との出会い」第4回は、当会賛同人で『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』(野中郁次郎他との共著、ダイヤモンド社、1984年、中公文庫、1991年)『大東亜戦争 敗北の本質』(ちくま新書、2015年)他多数の著作で著名な杉之尾宣生氏(元1等陸佐、防大教授、防大5期)にご執筆頂きました。クラウゼヴィッツ、孫子の研究でも知られ、『[現代語訳]孫子』(日経ビジネス人文文庫、2019年) 『物語クラウゼヴィッツ『戦争論』』(清水多吉共著、日本経済新聞出版社、2015年)等関連書籍を多数執筆されています。
加藤友三郎元帥との出会いは幼稚園時代に遡る。昭和16年、私は鹿児島市加治屋町の連合艦隊司令長官東郷平八郎大将の御生家の真向かいにある集成学舎幼稚園に通っていたから、有名な日本海海戦の絵画にあった旗艦「三笠」艦橋で双眼鏡を右手に仁王立ちの低身短躯の東郷さんの右後ろに位置する痩身の人物が加藤友三郎参謀長であることは、当然知っていた。当時の薩摩の稚児たちは皆そうだった。しかし加藤友三郎大将が故郷の大先輩で深く尊敬していた東郷さんをも凌ぐ大人物であったことを知ったのは陸上自衛隊に身を投じ戦史的修練を重ねるようなって暫く年月を経て2等陸佐(陸軍中佐)になってからのことであった。
さて、2500年前の東洋兵学の古典『孫子』「地形篇」に「進んで名を求めず、退いて罪を避けず」なる将帥の本源的な資質とも言うべき責任観念についての箴言が在る。これを顕現した典型が、滔々たる「対米七割主義の海軍力増強を主張して已まない帝国海軍の全組織的な怨嗟反発」の猛威の渦中にあってワシントン軍縮会議を采配した加藤友三郎海軍大将であった。加藤の真骨頂は、堀悌吉海軍中佐に口述筆記させた次の一文に結実していた。
すなわち「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。・・・仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に・・・・・結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず」と。
昭和50年代後半(1980年代)、祖国日本がソ連の圧倒的な軍事的脅威に曝されていた頃、母校防衛大学校の戦史教官として後輩たちに最も強調したのは、「軍事は政治の従属物である」とするクラウゼヴィッツの『戦争論』と、「不戦屈敵」を主張する孫武の『孫子』にある「戦争特に武力戦の本質論」であった。その際、必ずその具体的な範例として提示したのが、加藤友三郎海軍大将の「国防は軍人の専有物にあらず」の箴言であった。
加藤友三郎亡き後、帝国陸海軍の将帥たちの大勢は「国防の本義」を顕現すべき機能集団としての陸海軍の存在意義を顧みることなく、自己が属する母集団の拡大発展のみを追求し続けた。その結果、将帥たちは陸海軍という組織を、社会学者小室直樹が指摘した運命共同体的機能集団に堕せしめ、昭和20年8月15日に大日本帝国を瓦解せしめるに至った。
加藤友三郎元帥との出会い(3) 堤明夫氏
加藤友三郎元帥との出会い第3回はイージス艦「きりしま」艦長、防大教授等を歴任された、当会賛同人の堤明夫氏(海将補、防大17期・幹候24期)にご執筆頂きました。堤氏は『世界の艦船』『丸』『Jシップス』等の専門誌での執筆活動や、東映映画「男たちの大和/YAMATO」やNHKドラマ「坂の上の雲」NHKスペシャル「戦艦武蔵の最後~映像解析 知られざる”真実”~」、NHK土曜ドラマスペシャル「真珠湾からの帰還~軍神と捕虜第1号」等の考証で活躍されておられます。
私と友三郎元帥との出会いはもう45年近くも前のことになりますが、当時のことは今思い出しても顔から火が出るようなことでした。
私は昭和44年の防衛大学校入校時から艦艇勤務を希望し続け、そして実習幹部として昭和49年度の遠洋航海を終えた時、最初の勤務が当時呉を母港とした第22護衛隊「みねぐも」の通信士で、これで晴れて船乗りとしての道を歩み出せたと思うとそれは嬉しいものでした。
ところがそれもつかの間、翌50年12月にたった1年で艦を降ろされて陸上勤務となってしまったのです。当時まだ出来たばかりのプログラム業務隊(PGC、現在の指揮通信開発隊及び艦艇開発隊の前身)への転勤でした。
艦艇職域に配置された初級幹部は、砲術士や機関士などのいわゆる「士(さむらい)配置」を1年間ずつ異なった職務で3つ(3隻)を経験し、その後に航海長や応急長などに進むのが通常ですので、この転勤には驚きました。艦艇乗組失格となったのかと。
PGCがどこにあるのかさえ判らないまま、半ば意気消沈しながら退艦して夜行列車に乗って横須賀まで行き、探し回って辿り着いたのが船越にあった今は無き旧海軍時代の倉庫を利用した古い大きな体育館兼大講堂の屋根裏のようなところでした。
そして着任したその日から同時に赴任して来た5人一緒のOJT教育が始まり、いわゆる「システム屋」と呼ばれる第一歩が始まった訳で、以後の私の海上自衛隊勤務はここでの経歴がバックグラウンドになりました。
OJTが終了して実務に入っていた昭和51年の6月、上司で「大熊学校長」と渾名された名物科長の大熊康之3佐(当時)が3月に就役したばかりの海上自衛隊初のシステム艦である「たちかぜ」へ急遽第2代の砲雷長として転出することになり、代わりに来られたのがプログラム1科長(SFシステム担当)から同2科長(艦艇システム担当)へ横滑りの“スリッパ転勤”となった加藤武彦氏でした。
この大熊氏と加藤氏は防大(6期)・幹部候補生学校(13期)の同期生ですが、お二人ともPCG創設以前に海上幕僚監部にあった「CCS幹事室」時代から海上自衛隊のシステム導入に携わってきた叩き上げで、大変な知識・見識をお持ちで有名な方でした。
その加藤氏に交代されて暫くして、周りの誰かから「加藤さんは旧海軍の名門の家系で、御尊父は海軍大将だった方だよ」と教えられたのですが、その時私は、加藤氏の温和な風貌と柔らかな物腰から、すっかり加藤友三郎大将(元帥)の家系であると思い込んでしまったのです。
二十歳代半ばの私にしてみれば、何しろ両大将ともに古い写真や書物などでしか知らない、いわば歴史上の人物ですから、強面でかつ艦隊派の筆頭と言われた加藤寛治大将の方ではなく、実直な顔立ちで条約派の筆頭と言われた加藤友三郎大将の方であると。
そしてそれ以来、元々子供の頃から戦記物などが好きだった私は、折角の機会なので友三郎元帥やその当時のことなども、と色々読んだりするようになったのですが・・・・
とある日の科の懇親会の席上で、当の加藤氏から「堤、君は勘違いしているようだけど、僕は、加藤は加藤でも寛治の方の孫だよ」と。ご本人から直接指摘を受け、周りで聞いていた同僚たちも大笑いで、もう恥ずかしいやら何やら。しかしながら、笑い話のような勘違いが切っ掛けではありますが、この時に友三郎元帥について自分なりに学んだことは、今でも私の良き財産になっています。
そしてその勘違いの元であった加藤武彦氏とは、その後幹部学校長と高級課程学生、続いて呉地方総監と防衛部第3幕僚室長という関係でご指導をいただき、特に阪神淡路大震災における海上自衛隊災害派遣部隊指揮官とその司令部幕僚でお仕えしましたが、総監自ら被災した阪神基地隊に進出して実に見事な指揮統率振りを発揮され、私が心から尊敬する先輩のお一人となっています。
別冊歴史REAL大日本帝国海軍全史
当会でも講演をされた、文学博士の手嶋泰伸先生が本書のP45~61「Part 2 人物でみる帝国海軍」という章を執筆されております。加藤についても紙面を割いておられます。ぜひ店頭でお手に取ってご覧下さい。
加藤友三郎元帥との出会い(2) 手嶋泰伸氏
所縁の方々に加藤友三郎の事績を初めて意識した経緯を語って頂く不定期連載『加藤友三郎元帥との出会い』、大好評の第1回(元・自衛艦隊司令官松下泰士氏、防22期)に続き、『日本海軍と政治』(2015年、講談社現代新書)等の著作で有名な手嶋泰伸博士による第2回をお送りします。
「出会った」と言えるほどに加藤友三郎への関心を持ったのは、つい最近のことである。もちろん、初めて彼の名前を知ったのは高校3年の日本史の授業においてだったと思うので、20年近く前からその名前だけは知っていたことになるが、それはスピーチの中に登場する人名と聴衆との関係のようなもので、スピーチで紹介された人の名前ぐらいは記憶にとどめておくかもしれないが、スピーチの後に名前をあげられた人と積極的に名刺でも交換して会話を交わさなければ、名前を覚えた点を除けば、街角の雑踏の中ですれ違った人とそう大差はない。それを「出会い」と呼ぶのは、いささか大袈裟だろう。
大学の卒業論文から博士論文を提出するまでは、戦時期の海軍について分析をしていたため、海軍を研究しているとはいっても、そこでもやはり1923年に死去する加藤は視野には入ってこなかった。ちょうどその時、その後に若くして亡くなることになる平松良太氏が「第一次世界大戦と加藤友三郎の海軍改革―1915~1923年―」(『法学論叢』167-6、168-4、168-6、2010~2011年)という優れた論文を発表し、加藤友三郎の政治的動向を広範な時期にわたり明らかにしたが、加藤友三郎と政党政治との関係がクリアになったことに感心をしただけであった。 大学院修了後、日本学術振興会特別研究員をしていた私は、研究テーマとしていた1930年代における軍部の政治的台頭過程の解明のために、1920年代において何度も政治的な争点となった軍部大臣文官制(文官でも陸海軍大臣を務められるようにするという制度であり、シビリアンコントロールのためには重要なものである)の問題に注目するようになった。国立国会図書館憲政資料室に所蔵されている「財部彪日記」や、防衛省防衛研究所図書館に所蔵されている加藤友三郎の副官を努めた岩村清一の日記などをつきあわせ、加藤友三郎の海相・首相としての軍部大臣文官制導入に向けての取り組みを調べたことが、おそらく私と加藤友三郎との「出会い」であったのであろう。その成果は最終的には拙稿「1920年代の日本海軍における軍部大臣文官制導入問題」(『歴史』124輯、2015年)として発表し、そのエッセンスは拙著『日本海軍と政治』(講談社、2015年)の第2章でも紹介したが、そこで明らかになったことは、加藤友三郎が強硬派に悩まされたワシントン会議後に、軍部大臣文官制を導入することで予算を安定的に確保し、海軍を統御していこうと考えたものの、首相となってからはかえって政治と軍事の利害をすり合わせることができなくなり、結局は沙汰止みとなっていく経緯であった。海相を兼任していたとはいっても、やはり軍から実質的には離れてしまうと、いかに軍の実力者といっても軍の統御が難しくなるということを示しており、軍の統制を考えるうえで非常に重要な材料であることがわかった。現在、加藤友三郎を研究することで私は、彼とともにシビリアンコントロールの実現の方途について頭を悩ませている。
加藤友三郎元帥との出会い(1) 松下泰士氏
先日お伝えしました通り、今後、当会では加藤友三郎元帥との出会い(1)と題して不定期に所縁の方々から加藤の事績について意識した経緯について短い随筆をお寄せ頂くこととしました。今回、その記念すべき第1回として当会理事で、元・自衛艦隊司令官の松下泰士氏(元・海将、防大22期、幹候29期)にご寄稿頂きました。
私にとって、加藤友三郎元帥との出会いについては3つの節目がある。 一度目は、30数年前に佐世保で勤務していた頃のことである。若手幹部を対象に海軍出身の大先輩講師による講話があったのだが、その講師が、講話の冒頭、「諸君は、帝国海軍で最も立派な提督は誰だと思うか。」と切り出された。ぼそぼそと東郷さん?山本五十六さん?と囁く声は聞こえたが、自信を持って答えた者はいなかったと思う。ざわつく若手幹部を見回しながら、講師曰く「それは、山本権兵衛と加藤友三郎である。」であった。山本権兵衛さんは私も心の中で挙げた候補の一人だったが、加藤友三郎さんは予想外であった。日露戦争時の連合艦隊参謀長、ワシントン軍縮会議の全権、その後総理大臣、その程度の知識しかなかった私にとって、この時の講話が明確に加藤友三郎元帥を意識した、即ち最初の出会いだと思っている。 二度目は、冷戦構造が崩壊した直後のことである。当時、私は海上幕僚監部防衛課編成班という部署で勤務していた。この頃、新聞やテレビでは「平和の配当」を求める論調が目立ち始め、海幕でも「ネーバルホリデー」という言葉が聞かれるようになっていた。そのような情勢下、予算の削減を覚悟した海幕防衛部は、軍縮機運が高まった第1次世界大戦後に帝国海軍がとった施策、特にワシントン軍縮条約への対応について調査することにした。誰がどういう基準で決めたのか分からないが、私がこの調査を担当することになった。私もルーティンワークだけでそれなりに忙しくしていたのだが、その日から、防衛研究所に通い、戦史研究家から話を伺う日々が始まった。この作業を通じて、加藤友三郎元帥についてその人柄なども知りたくなり、直木賞作家で海軍兵学校OBの豊田穣(兵68期)の『蒼茫の海 軍縮の父 提督加藤友三郎の生涯』(1983年、プレジデント社のち集英社文庫、光人社NF文庫)なども読んだ。これが、二度目の出会である。 三度目は、練習艦隊司令官を離任した直後、2007年の年末か2008年の年明けかだったか定かではないが、故谷川清澄さん(兵66期、元佐世保地方総監)の紹介で元帥玄孫の加藤健太郎さん(当会顧問)と横須賀の有名な海軍料亭『小松』で一席して以来懇意となり、現在に至っている。 一度目に元帥の業績に触れ、二度目に人柄に触れ、三度目にDNAに触れたというところであろうか。
不定期連載「加藤友三郎元帥との出会い」開始について
今後、当会では、「加藤友三郎元帥との出会い」と題して、当ウエブサイトとブログにおいて不定期に所縁の方々から加藤の事績について意識した経緯について短い随筆をお寄せ頂くこととしました。
記念すべき第1回は、当会理事で元・自衛艦隊司令官の松下泰士氏(防大22期)が寄稿されます。近々掲載予定ですので、楽しみにお待ち下さい。
平成30年8月22日中国放送「イマなまっ」
去る8月22日中国放送の情報番組「イマなまっ」にて、先日の加藤没後95年墓前祭が取り上げられ、 当会理事の松下泰士氏(第41代自衛艦隊司令官、海将、幹候29期)へのインタビューが放映されました。加藤について「非常にバランス感覚を持っていた人物。もっと勉強してもよい」とコメントされています。時間の関係で放映されませんでしたが、「加藤は軍縮に伴う人員削減は、数次に分けることなく1回で行うよう指示するなど高い見識が伺える」といった趣旨のコメントもされました。
なお、当会からは、松下氏に加え、会長の大之木小兵衛氏、副会長の拳骨拓史氏、顧問の加藤健太郎氏(加藤元帥玄孫)の他、賛同人、会員の皆様が多数参加されました。
平成30年8月19日付中国新聞
中国新聞が去る8月18日(土)に執り行われた95周年墓前祭の様子を記事にして下さいました。
加藤友三郎内閣総理大臣元帥海軍大将95年祭
今年は加藤没後95周年にあたり、以下の通り加藤の眠る青山墓地にて墓前祭を執り行ないたく御案内申し上げます。なお、墓前祭終了後、青山霊園にほど近い乃木会館にて会食の席を設けております。ご参列下さる方は8月10日(金)までに事務局にご一報頂けますれば幸いです。
祭主:加藤健太郎(加藤友三郎玄孫)
代表世話人:大之木小兵衛(加藤友三郎元帥研究会会長)
世話人:加藤友三郎元帥研究会 95年祭実行委員一同
日時:平成30年8月18日(土)午前10時00分より
場所:青山霊園内加藤友三郎閣下墓前
参加費:1万円※式典のみご参加の方は別途ご連絡下さい。
主催:加藤友三郎元帥研究会
申込アドレス:tomosaburo.kato@gmail.com
2)お墓の位置をご存知ない方は青山霊園管理事務所駐車場に9時40分迄にお越し下さい。
3)青山霊園の最寄り駅は以下の通りです。
銀座線「外苑前」駅 出口1b (徒歩約8分)
千代田線「乃木坂」駅 出口5 (徒歩約12分)
大江戸線・半蔵門線・銀座線「青山一丁目」駅出口3(徒歩約10分)
大雨被害による第6回呉セミナー延期のお知らせ
今回の西日本を中心とした豪雨による災害により被災された皆様にお見舞い申し上げます。
7月21日開催予定の「第6回呉セミナー」は、開催地の呉市も含め広範な地域に甚大な被害が出ている状況を鑑み、残念ながら延期させて頂くことと致しました。既に参加をお申込み頂いた皆様には大変申し訳ございませんが、何卒ご理解賜りたく、お詫び申し上げます。
そして被災された地域の1日も早い復興を心からお祈り申し上げます。
世界の艦船ホームページ
海人社の『世界の艦船』ホームページに第5回呉セミナー「軍人政治家としての加藤友三郎-海軍と政党政治のはざまで-」の告知を掲載して頂きました。
WEB歴史街道
PHP研究所の『WEB歴史街道』に第5回呉セミナー「軍人政治家としての加藤友三郎-海軍と政党政治のはざまで-」の告知を掲載して頂きました。
J Ships 平成30年6月号
現在発売中の『J Ships』6月号にて、今月27日(日)に呉にて開催される当会の年次総会・講演会・茶話会のお知らせをご掲載頂きました。